私の息子は3歳ぐらいからプラレールが大好きだった。
トミカのミニカーも大好きだった。
プラレールとミニカーを部屋いっぱいに広げて遊んでいた。
プラレールの線路を作る時に、その様子を見ていると線路をうまく繋げられず、形がいびつになったり、楕円形にならないことがあった。
そこで私が線路を直そうとすると息子は「ぶぶんで~、ぶぶんで~(通訳:自分で~、自分で~)」と言って私が直すのを嫌がったものだ。
それでその線路で電車を走らせて、電車が脱線!
その後、あれこれとつなげ直していたが、うまく、電車が走る日もあれば、そうでもない日もあった。
そんなことを続けていくうちに、楕円形の線路をうまく繋げられるようになり、積み木を使って、トンネルを作ったり、ふすまの敷居を使って、車庫を作ったりと、息子のプラレールはいろいろに変化をしていった。
失敗をすることや、自分で試すことが遊びの幅を広げていったようだ。
もし、あの時に「自分で」と言っているのを無視して、私が線路を繋いでいたら、きっとそこまで遊びを広げることはできなかっただろう。
あれこれと想像をし、頭の中で考えたことを試すこともしなくなり、そのうちにありきたりな使い方でしか遊べなくなってしまったかもしれない。
親はつい子供のためを思って手を出してしまう。(もちろんそれが必要な時もある)
学習でも「わからない」と言われれば、口を出し、手を出したくなってしまう。
しかし、それは我が子の自ら学ぶチャンスをつぶしてしまう可能性が高い。
はじめから〇がつくことが大切なのではなく、間違えたときに「どうやったら正解に近づくのだろう」と試行錯誤することが大切なのだ。
×はその子を伸ばすチャンスだ。
うちの塾の小学部のテストの解き直しノートは「たからものノート」という。
「まちがいは、あなたの力を伸ばす“たからもの”だ」と伝えている。
なかなか正解を出せず、傍(はた)から見ていて歯がゆく思うこともあると思う。
それでも、我慢。
人に聞いて〇がついた答えより、自分で考え、たどり着いた答えの方が、何倍もの価値がある。