以前のブログに「私は『ねばならない』で育てられたから、自分の子どもは『ねばならない』では育てないように努めた」と書いたが、誤解を招く表現だったと思い、今日のブログを書いている。
私が子どもの頃、母は私を「母の都合の良い『ねばならない』でしばっていた」のだ。つまり、「母にとっての良い子でいなければならない」ということだ。
特に、他人の目に「良い子」と映らなければならないという命令は厳しかった。
私が他人から見て「良い子」であることは、母の評価につながるからだ。
母はある大手スーパーにパートで入り、その後店長にまで登りつめた人だったが、よく私に「万引きは絶対するな」と言っていた。
そしてその後には「私が恥をかくから」とつけ加えた。
今考えると、注意のしかた、間違えているなあと思う。
幼稚園時代に私は「子供のゆがんだ心理の絵」のお手本になれそうな真っクロな絵を描き、幼稚園から母が呼び出されたりもした。
母は、そのことを大きくなった私に笑いながら話せるくらいの神経の持ち主だ。
私の母は今でいう「毒親」だったのだろう。
その後、自分が母親になる時に「自分にとって都合の良い、子育てをするな」とお師匠さんから注意を受けたのだ。
(私の過去を全く知らないのに、手相を見ただけで分かるお師匠さんはすごい😮)
だから「母親の自己都合を子供に強(し)いない」ことを、私は「子育て」の信条としているから「『ねばならない』では育てない」と書いたのだ。
でも、決して一般の「ねばならない」を否定しているわけではない。
世間一般に言われる「ねばならない」=義務感は逆に必要だと考える。
今は「ねばならない」が軽く見られている時代だとも感じる。
勉強しなければならない。
宿題はやらなければならない。
期限は守らなければならない。
など、世間で言われる「ねばならない」はたくさんある。
その「ねばならない」こそ学習においては必要で、それが学習への最低限の動機づけともなり、学習生活から社会生活への役に立つ橋渡しにもなると思う。