先週仕事の合間に、閉店ギリギリの定食屋さんに夕食を食べに行った。
ラストオーダーになんとか間に合って、席についた。
私の席からはカウンターでご飯を食べている青年が見えた。
見えた瞬間から、何か違和感があった。
手元をよく見ると、お箸の持ち方が変わっている。
ナイフで何かを突き刺すときのような持ち方なのだ。
お皿の上のお肉はつまめるが、さすがにごはんはつまめない。
何度も何度もごはんをつまむけれど、ちょっとずつしか食べられない。
その青年が帰った後のテーブルの下は、食べこぼしがたくさん落ちていた。
どういった経緯でお箸の持ち方が身につかなかったのか。
それがとても気になった。
本来、持ち方って少し違っても、何とかなるものだ。
でも、正式な持ち方があるのは「その方がいい」理由があるからだろう。
箸が正しく持てたら、まず本人が食べやすいだろうし、食べ物を散らかすことも少なくなるだろう。
20年ほど前、ほとんどの子どもたちが鉛筆を正しくまだ持てていた時代。(今は正しい持ち方ができる子は少なくなった)
ものすごい鉛筆の持ち方をする小学生が体験に来た。
字を書くのも大変そうだったので、「正しい持ち方」の練習をした。
その夜、保護者の方から「よけいなお世話だ」とのお電話をいただいた。
だが今でも「よけいなお世話」している。
うちの塾を選んでくださるということは、成績をよくしたいという思いがあって、通わせてくださっていることは確かだと思う。
実は鉛筆が正しく持てないと、手が疲れやすく、集中した学習に向かないのだ。
特にうちの塾の名物「チマチマ書き」の暗記なんて絶対にできない。
学習姿勢が美しく、たくさん書いてもつかれない、がほとんどの成績優秀者の特徴だ。
それらはまず「鉛筆の持ち方」が正しいところから身につく。
「よけいなお世話」は「学習をするために必要なこと」なのだ。